子育ては親育て

大人になるあなたへ ~産まれる前のお話

公開ブログに書くかで迷いましたが、やっぱブログにしておきます。

 

今から3-4年を振り返って記録しておきます。
まずは産まれる前の頃から。記憶違いやあいまいなところもあるけど、断定して書くことにする。

 

産まれる前のこと。
不妊治療を選ぶか、養子縁組を選ぶかでも迷っていた。子どもは欲しかったから。でも、できにくかったんだよ。
養子縁組をした後で、もし妻に子どもができてしまったら?・・・ボクは子どもに平等に接することができずに、妻との子を優遇すると思ってた。だから、養子縁組を決めるなら、自分たちの子はナシが、ボクルール。そうだ、血を選ぶってことだね。血って何だろう?

 

考えていくうちに、不妊治療をもう1度試してみることを選択した。以前の不妊治療では、さんざんなストレスでイヤな目にあったので、妻は消極的だったけど、ボクはこれからの10年で、このときしか時間・お金・エネルギーをさけないだろうと、なんとなく感じていたので説得して、進めていった。

 

不妊治療は、砂漠に水をやって湖をつくろうとするようなイメージで、ストレスの日々が永遠かのように続いた。そして最後の最後のチャレンジにしよう。その1つがあなたでした。もっと前のチャレンジが我が家にきていたら、残りのチャレンジは冷凍保存したと思うので、今とは違う家族になっていたかもしれないね。でも最後のチャレンジで、あなたがやってきたんだよ。

 

 

多くの夫婦と同じ頃、ボクたちも一般の病院へ行くようになった。一般的には、ここからがはじめての通院で、1年後を想像してわくわくしたりするもんなんだと思うけど、ボクはすでに疲労困憊だった。

 

しばらくして、ヨメのつわりがひどくなった。食事も水もまったくに近いくらい何も口にしない日が続いたときがあった。出産直前まで働く人とは、大きく異なったので混乱したけど、病院に連れていったところ、入院で点滴つづきの生活になった。また病院通いがはじまったけど、不妊治療のときとは違って今度はボクだけの通院。

どれくらいの期間だったかな、1ヶ月くらいいた気がするけど、もっと短いかも。退院して、「自宅安静」を言い渡されました。家のことは、なるべくボクがやるようになり、横になっておくことがヨメの仕事。病院にいてもらったほうがマシだったのかどうか、今でもわからないけど大変だった気分だけ残ってる。

 

定期検診をつづけていると、ある日、医師から相談されました。「胎児に何かあるようです。でもここでは検査できないので転院してください」と。

より設備の整った大学病院に移ることになり、車で片道15分の定期検診から、片道60分のところへ転院になった。家からだと、どのルートを通っても道が広いところがなく、ヨメの顔を見にいく道のりがとても大変だった。時間をつくるのは、仕事がら大変じゃなかったけど、往復2時間の運転と、帰宅してからの洗濯、この2つが大変だったかな。事故ったりもしたなあ・・・。いや、でも、これから起きることに比べたらしれてるか。。。あのときはあのときで大変だったんだよ。でも今思えばマシかも。フシギな感覚。

 

産まれた結論からいえば、たいしたことはなかったんだけど、あの頃、おなかにいる状態では詳しいことがわからなくて、医師から不安な気持ちにさせられた。その話ばかりが頭に焼き付いて、だれも何をどうすることもできないのに、不安で仕方なかった。不安になって、調べれば調べるほど不安が増していった。まじめで中途半端な素人がよくこうなってしまう、ってずいぶん経ってから別のところで学んだ。

 

今なら、その経験をふまえて、もう1度自分がその気持ちになることはないだろうし、他に同じようなことになった人がいれば、医師のコトバの適切な受け取り方をアドバイスできるかもしれない。でも、あの頃のボクらは、受け取る術をもっていなかったから。医師だって、わからない手探りの中で可能性を伝えただけだったから。ボクらは不安で仕方なかった。ひとりの時間になると、何も手につかなかったよ。でも今ならそうならない。フシギ。

 

年末年始を病院で過ごすことになって、ボクら夫婦は別々で年を越した。年末のクリスマスには、チキンが出てきて、ヨメの喜んだ写真がアルバムに残ってるよ。2ヶ月くらい通ったかな。だんだんあなたが大きくなってきて、身体の様子がよりわかるようになって、不安要素が少しずつ減っていった。産まれてすぐに集中治療室に入る可能性がほぼなくなったことから、ボクから要望して、近くの病院へ再転院することにしてもらえました。片道30分のところ。これでも長いけど、移動は半分になった。

転院できるくらいまで不安が減って、移動が半分になったので、ホッとした量は大きかった。

 

この頃、おじいちゃんおばあちゃんに助けに来てもらった。産まれるまで入院だろう、と考えていたので、残り3ヶ月ほどをボクが通い続けるのはムリがあったから。

ここでの検査で、「最大級の不安の可能性は0」と診断された。それどころか、もっともっともっとマシなんじゃないか、ってことに話が進んでいった。産まれるまで入院だろうと思っていたのに、1ヶ月ほどを残して退院することになった。勝手に出てこないように手術をした後だったので、ヨメは絶対安静だった。

 

 

3つ目の病院で出産することになったけど、男女の診断は1つ目の病院でしかされてなかった。聞こうとするココロの余裕がなかったし、1つ目の病院で言われた性別が「女の子」だったことが、どうしても受け入れることができなくて、だれにも言わずにいた。知人が妊娠のことを知って、性別を聞いてくるけど、言わずに通したよ。変な人だと思われたと思うけど、3つ目の病院で今さら確認しなおそうという頭までは働かなかった。

 

この辺りの医療費がすごいことになった。いろいろあって民間保険が降りなかったので、この期間の入院費用が全額負担だったのは、予想外の大出費だった。出費は不妊治療で終わりにしたつもりだったので、この負担は痛かった。どうでもいいけど、1年後に国民保険からも追加請求されて、その出費もタイミングも痛かったよ。大事なとこで計算間違わないで。。。じゃなくて、保険は入って安心じゃなくて、降りるところが安心できるってことを、飛んでいくお金をみながら学んだ。

 

他に、入院してるか自宅安静かだったので、あなたが産まれる前に買いものにほとんどいけなくて、ネットで注文することになる。あれやこれやと見ながら、話し合って買うなんてことはボクら夫婦には少なかった。まあでも、放って置いても大きくなるんだろうなあ、なんてよく知らずにボクだけ思ってた。

 

「(女の子かあ・・・名前、どうしようかな)」

ボクが仕切ることにしていたので、姓名判断の本を3種類ほど買って、1番気が合いそうだった人の方針を採用したよ。

 

予定は4月5日あたり。学年が変わりそうなところが予定日だったので、4月になりますように!と多少願っていただけなのに、そうしたら、3月の終わりにあなたがやってくることになったんです。

  • この記事を書いた人

ぴろきち

ぴろきちです。大阪生まれで大阪育ち。関西人らしくないと薄々感じてましたが、どうやら血は大阪人じゃないようです。環境で大阪人になってもよさそうなのにね。 世界遺産めぐりが好きで特に遺跡に興味があります。他には神社や寺めぐりをして、御朱印集めをはじめてまもない状態。自分のルーツ・人のルーツをたどることが好きで、家系図づくりをしていますが、4世代より前へなかなか進めずにいます。肌が弱いので、タバコの煙が苦手。お酒もほぼ飲みません。 食べ過ぎたりもしたけれど、ぴろきちは元気です。

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